どうもあっきーです!
今回は2019年4月20日~6月30日まで新宿の損保ジャパン日本興亜美術館で開催されている「ドービニー展~バルビゾン派から印象派への架け橋~」へ行ってきたので気に入った作品とドービニーという画家について紹介したいと思います。
この日の東京は日中30℃オーバーの猛暑で、やっとの思いで汗だくで入口までたどり着きました。
このドービニー展かなり楽しみにしてました。
何も知らず見たときの印象は、
「水辺と自然がきれい!」
と感じました。
ドービニーがどんな作品を残したのか年代と共に僕の気に入った作品を紹介していきたいと思います。
クロード・モネ作品、印象派の絵画ついては別記事で紹介していますのでぜひこちらも読んでみてください。
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ドービニーとは?
本名はシャルル・フランソワ・ドービニーと言います。
19世紀フランスのパリ生まれ、父や叔父も画家で小さいころから絵の手ほどきを受けます。
小舟を所有しアトリエとすることで長く自然と対峙し作品が描けると水辺の作品を多く描き、これを機に「水の画家」と呼ばれるようになります。
また、「旅する画家」とも呼ばれており、ローマ、南イタリア、バルビゾン、ブルゴーニュ地方、ノルマンディー地方の漁村ヴィレールヴィルなど様々な場所へ着想を得るために旅をしていました。
漁婦や漁師の働く姿にスポットを当てた風景を気に入り多く描いています。
ドービニーは4人の子供にも恵まれ長男のカール・ドービニーも同じく風景画家として作品を残しています。
彼の遺作671点の売却は3日で終わるほどの大人気だったそうです。
サロンの審査員も務め、クロード・モネなどの作品を評価し、のちの印象派の誕生に大きく影響を与えた人物です。
バルビゾン派とは?
パリの南東に位置するバルビゾン村に集まった画家の集まりのことですが、バルビゾン周辺以外も描いていることから近代風景を切り開いた画家たちという意味合いが強いと考えらえれます。
ドービニーもこのバルビゾン派の一人です。
1830年~1850年頃の作品
ドービニーは最初は、神話やキリスト教を主題とした作品を描いていました。
ですが、ローマ賞に2度落選したことで歴史画家として生きていくことを諦めました。
ここからドービニーの作風は変わり、自然の美しさを表現することに価値を見出しました。
聖ヒエロニムス
キリスト教の聖人。荒野で禁欲的な隠遁生活を送り、神学の研究に一生を捧げたとされます
1850年~1860年
ドービニーは小麦畑や果樹園なども描いています。
そして1857年にドービニーは初代となる「ボタン号」と呼ばれるアトリエ船を入手します。
1854年からはドービニーは、パリから北西へ30㎞の小さな町、オーヴェール=シュル=オワーズヘ頻繁に訪れオワーズ川の風景を多く描きました。
ドービニーの作品は、保守的な批評家たちから非難されましたが、当時のブルジョワ達の嗜好とマッチしてドービニーの作品は広く知れ渡り、名声を得るようになります。
池と大きな木のある風景
兎のいる荒れ地
澄んだ空もきれいですが、この兎のいる荒れ地の作品の夕焼けも淡い色味で好きです。
中央やや右側に見落としてしまいそうなくらい小さく兎がちょこんと描かれています。
1860年~1878年
晩年のドービニーは1868年に2代目となるさらに大きいアトリエ船「ボッタン号」に乗り換えさらに遠くまで出かけて作品を描きました。
夏はヴィレールヴィレで養生し、冬はアトリエで春のサロンに向けて完成品を描く日々を送りました。
またこの頃モネやピサロと出会い影響を与えるとともにドービニーも彼らの筆触分割などの技法を学びました。
ボッタン号
オワーズ川、朝の効果
ブドウの収穫
ヴァルモンドワの森の中
銅でできた原版をエッチングを使った「船の旅」という版画集も製作していて、ボタン号での旅が面白おかしく描写されています。
アトリエ船
銅の板全体を酸に強い膜で覆い、描きたい部分を先の尖った道具ではがし、その部分を酸に浸すとはがした部分が腐食によって溝ができます。その溝にインクを詰めて紙を乗せ、圧力をかけ、インクをすり取る技法です
最後に
ドービニーの作品いかがでしたか?
今日ではオーヴェール=シュル=オワーズはゴッホの最期の地として知られていますが、そのゴッホがドービニーの影響を受けて移り住んできたことはほとんど知られていません。
いろんな人から慕われていたと言われるドービニーは作品から見るに一途で心の清らかな人だったんだろうなと感じました。
船の旅なんてロマンがあって素敵ですよね~!
オワーズ一回行ってみたいですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。